STORY歴史と綴るちゅうせき

当社創業者 津脇勘市と会社の前身

戦前
後に当社を創業する津脇勘市は、山口県宇部市にて石炭商・石炭運送業を営んでいた。
1942年
石炭商がすべて廃業させられ、地方石炭統制会社が配給を担当することになる。
津脇は「山口県石炭販売会社」の社長に任命される。
1944年
中国5県の統制会社が合併した「中国石炭配給統制株式会社」の社長に選ばれ務める。
1945年8月6日
日本石炭広島支店、中国石炭配給統制株式会社本社、西日本石炭輸送広島支店
焼失

8月6日の原爆殉難者法要
この日広島市に落とされた原子爆弾により、三社が入っていたビルは一瞬にして倒壊し、 多くの社員が亡くなられました。たまたまの巡り合わせで一命をとりとめた津脇勘市は、 この多くの霊をなぐさめるため郊外の寺社で慰霊をしていましたが、13回忌を迎える時、 自らが発起人となり全国の石炭業者からご浄財を募り慰霊碑を建立しました。 慰霊碑は当時の建物近くである広島市中区大手町第一公園にあり、 現在も毎年8月6日には法要を営んでいます。

原爆慰霊碑
1946年9月
中国石炭配給統制株式会社は社名変更し「中国石炭販売株式会社」となる。
1947年
配炭公団設立。中国5県を統制する配炭公団広島配炭局長に津脇が就任。
1949年4月
配炭公団の廃止。7年4ヶ月ぶりに石炭販売業者の復活となる。
配炭公団解散のために生ずる失業者の就職先となるべく 津脇は 「中国石炭株式会社」を設立。これが当社の創業である。

もうひとつの 8月6日

原爆下での対局

昭和20年夏。戦争による混乱のなか広島で囲碁の本因坊戦が開催されました。
7月24~26日、第一局が現在の広島平和公園付近(広島市中区)で開かれました。
しかし第二局を控え、当地の中国総監府 青木重臣長官から「戦争の状況が非常に悪くなってきているので市内開催は危険だから、市内で打ってはいけない」と厳命を受け、急遽五日市(広島市佐伯区)にあった津脇勘市が所有していた建物が対局場として選ばれたのです。

原爆下での対局

第二局は8月4日~6日。第三日目の朝、さぁはじめようという矢先に原爆が投下されました。当時その場にいた対局関係者は、窓ガラスが吹き飛んだ、碁盤に突っ伏し失神したなど、惨状を書物や証言に残されています。
が、幸いにもその場では犠牲者を出すことなく、結果として日本の囲碁有段者を失わずにすむことができました。
(続く第三・四局は千葉で、第五・六局は東京で行われました。)
当時使用された碁盤は後に、瀬越憲作八段(当時)により「澄神」と命名され、橋本宇太郎本因坊、岩本薫七段(当時)、両氏も署名されています。